『穹窿航路 - 蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還す -』
古代インドより日本に流れてきたとされる蚕神・金色姫。
漂着した常陸の海岸の蚕養神社と筑波の蚕影山神社(養蚕信仰の中心地)を結び、
近代日本の養蚕業において形作られた絹の道、
そして現代の交通路を合わせて、
近代日本においての重要産業だった養蚕に関するものたち(金色姫とその分身ともいえる蚕や生糸)の来訪と帰還の経路を、現代の関東平野において想像的に仮設する。
そしてその経路の痕跡(信仰地等)を作家が追体験として辿り、各地の取材を元に絵画を制作する。
経路は以下となる。
常陸(蚕養神社) →筑波(蚕影山神社)→関東諸地域(※今回展示では圏央道と仮定)→八王子(桑都)→絹の道→相模野→横浜
観客は展示空間に関東平野を大きく円を描いて横切る「航路」を幻視する。
2024年加藤真史
《郊外の果てへの旅と帰還 #15(横浜本牧八王子鼻)》
《郊外の果てへの旅と帰還 #14(常陸小貝ヶ浜)》
関東平野にて、蚕神の往還した航路を辿る
Fieldwork 常陸 - 横浜
2024年6月、私は茨城県日立市川尻町の小貝ヶ浜を訪れた。
古代インドから養蚕の神である金色姫が漂着したという伝説の残る海岸である。
金色姫は古代インドにおいて継母に疎まれて4度殺されかけながらその度に生き残り、「うつろ舟」という舟(空飛ぶ円盤をそのまま潜水艦にしたような形ともいわれる)に乗せられ日本に流されてきたという。
また金色姫は蚕の神として古代より信仰されており、漂着地である茨城県には金色姫伝説にまつわる常陸国の三蚕神社が存在する。
漂着地である日立の小貝ヶ浜にある蚕養神社、古代より養蚕信仰の拠点である筑波の蚕影山神社、そして神栖の蚕霊神社だ。
金色姫伝説は縄文末期の稲作伝来の時期、または弥生中期頃の養蚕伝来とともに伝わったという説もあるが詳細は明らかではない。
また下記などに金色姫伝説と類似した内容の説話が記述されている。
・『戒言』(かいこ)…16世紀半ば 室町時代の御伽草子
・『庭訓往来抄』…1631年(寛永8)の江戸初期の注釈本
・『養蚕秘録』…1802年(享和2)の養蚕全般に亘る教書
もともと蚕神としての金色姫とうつろ舟は別々のものだったのだが、江戸時代後期に曲亭馬琴が『兎園小説』のなかの「うつろ舟の蛮女」でそれらを創作物として結びつけた。
発起点からしてフィクションと不可分である。
またそんな金色姫伝説にインスパイアされた澁澤龍彥の晩年の作品に『うつろ舟』という短編がある。
東アジアを舞台に宇宙空間と海洋と河川と便所を流動する水や体液を仏教用語と重ねて自在に行き来するという、書いていて自分でも訳が分からないが本当にそのような話だ。
また金色姫伝説以外もだが、基本的に民話や伝承の類いとは「何でそんなお話なの?」という問いに対する理論的回答などなく、ただのダジャレとか、カネ儲けしたいという野心とか、皆の愛郷心を増やしてやろうという動機とか、一個人の彗星のような瞬間的インスピレーションなどによる、先達たちのわりと適当なパッチワーク的創作物だ。
そんな有名無名の先達の思考の自在さに倣い、私は蚕神である金色姫が大きく円孤を描いて、ほんの70〜80年前までは農家の貴重な現金収入であり人々の生活を支えるという意味で養蚕業が盛んであり、各地に一面の桑海が広がっていた関東平野を渡る、時空間を越えた「航路」を辿ろうと考えた。
私はそれを古代から近代という長い期間において関東平野で描かれた蚕神の「穹窿航路」と名付けた。
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東の海から漂着した金色姫はその亡骸が大量の蚕に変化したといわれている蚕神である。
蚕神は自らの分身である蚕や生糸となって、さらには人々の間にのみ存在する形而上的な信仰対象へと姿を変えて信仰の総本山である筑波の蚕影(山)神社をはじめとする関東平野各地の桑海を渡り、
その後に近代国家日本の国力を増すための生糸や絹織物という輸出品として「桑都」八王子に集まり、さらにそれらは「絹の道」に沿って相模野を抜けて横浜へと辿り着き、再び海へと還っていった。
そんな近代日本における重要な輸送路のひとつだった「絹の道」の終点である横浜にはその始点である八王子と地名を同じくする場所がある。
中区本牧周辺の八王子道路や1911年(明治42)に本牧神社に合祀された八王子権現社、そして初代歌川広重が1858年(安政5)に浮世絵《富士三十六景 武蔵本牧のはな》として描いた八王子鼻(鼻は岬という意味)だ。
ただしここは名前が同じなだけで「絹の道」とつながっているわけではない。
そしてその付近には明治後期から昭和初期にかけて多くの日本画家のパトロンとなった生糸商で蒐集家の原三溪が創設した三溪園がある。
その三溪園内の南端の丘の上の根岸湾を望む展望台から八王子鼻にかけての、現在の東京湾岸道路沿いとほぼ重なる崖は、地図を検索すると1950年代半ばまでは海岸線だった。
現在埋め立て地となったその崖の先周辺は比較的寂れた海辺の漁村の影も少し残る市街地エリアであり、さらにその先は歩行者を寄せ付けない京浜工業地帯が拡がっている。
三溪園北側のアメリカ坂を登った先のJR山手駅周辺の高級住宅地とは地形の高低差がそのまま風景に反映しているようだ。
ちなみに東京湾岸道路を挟んだ三溪園の反対にあたる埋め立て地側には金色姫が常陸に漂着した場所と同じ豊浦という地名がある。
妙な符合が多く見られるものの、この一帯は空間としても時間としても長い航路を渡りきった蚕神が海へと還る地としては、そこかしこに荒れ果てた場末感があり感慨もなにもあったものではない風景だ。
だが戦後急激に産業として衰退し同時に信仰者も激減した、つまり人々の中での存在感が限りなく透明に近くなってしまった神様が辿り着いた土地としては、皮肉や冷笑ではなく率直に相応しいとも感じる。
事実常陸の蚕養神社、筑波の蚕影(山)神社をはじめ、八王子や相模野なども含め私が辿って来た航路の途上の養蚕信仰地は、ことごとく忘れ去られたように荒れ果てていた。神の力は人々の信心の総量と比例するのだ。
ただ所謂廃墟のようだとはいっても18世紀末から19世紀前半のロマン主義の「崇高」の概念などとは遠く離れてかすりもしない、容赦のない入れ替え可能な郊外風景の中に埋没したそれらを穹窿航路に沿って巡礼することで、
力をほとんど喪ったかに見える蚕神は「風景は視点と視座に依って姿を変える」という私の指針に裏打ちを与えるという思わぬ影響力を及ぼしてくれた。
【参考・引用】
▪ 澁澤龍彥『うつろ舟』(2022 河出書房新社)
▪ 澁澤龍彥『東西不思議物語』「14 ウツボ舟の女のこと」(2022 河出書文庫)
▪ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015 晶文社
▪ 佐藤秀樹『曲亭馬琴『兎円小説』の真偽ーうつろ舟の蛮女と大酒大食の会』(2022 三弥井書店)
▪ 『はまれぽ.com』「三溪園近くの『八王子道路』は、どうして『八王子』なの?」
https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=6702
▪ 『Alice堂のWEBLOG』「八王子鼻へいってきました」
https://alice.cocolog-nifty.com/alice/2021/10/post-ca00c3.html
《郊外の果てへの旅と帰還 #12(八王子)》
桑都逍遥
Fieldwork八王子
2024年2月に2日間かけて養蚕関連地を中心に桑都八王子をフィールドワークした記録を残す。
地理的に八王子中心部は東の日野方面以外は山に囲まれた小さな平地であり、実際に歩いてみると徒歩でもなんとかめぼしい場所を回ることができるくらいのサイズだ。
また八王子駅周辺はビルが建ち並ぶ都市の様相だが、そこを離れて特に西の高尾山方面に向かうと土着的な色が濃密な街と感じた。
ちなみにとある多摩応援がコンセプトのラジオ番組で冗談混じりに「多摩地方が県として独立するなら現在の県庁所在地最有力候補は八王子や国分寺や府中ではなく立川だろう」という話を聞いたことがあるが、少なくとも八王子が有力候補に挙がるのも八王子駅周辺を歩くとうなずける。
2日にわたるフィールドワークのコースは末尾に記載してある。
【1日目】
(1) JR中央線八王子駅
(2) 機守神社(大善寺)
機神である白滝姫(白滝観音)を祀った神社である。白滝姫は恒武天皇の時代(奈良期末〜平安初期)宮仕えしており、上野国山田郡の男と恋に落ちその故郷である桐生に移り、絹織物の技術を現地の人々に伝えたという。
機守神社はもともと八王子中心街の大横町(八王子市夢美術館の北側と浅川の間)にあったが1851年に郊外の大谷町に移転した。
まだ機械ではない手繰りによる機織りが主流だったころ、技術向上を願う織子たちの信仰をとくに集めた。
(3) 萩原橋
あきる野から続く秋川街道と浅川の交点に架けられた橋である。
初めは1900年(明治33)、萩原製糸の創業者である萩原彦七の寄付により木造で架けられた。
彦七は1850年(嘉永3)に相模国愛甲郡依知村(現・神奈川県厚木市)に生まれる。
12歳で古着呉服質屋の丁稚奉公に入るが、数年後にそこを飛び出して高座群当麻村(現・相模原市)の生糸商のもとに転がり込む。
その後八王子の生糸商である初代・萩原彦七 に雇われ番頭となり、1872年(明治5)にその名を襲名する。
そして1877年(明治10)八王子ではじめての機械製糸工場の萩原製糸工場を八王子市中野上町に創業し事業規模を拡大する。
しかし萩原橋架橋の同年に恐慌が起こり生糸の値段が暴落し、そのわずか翌年1901年(明治34)に後に富岡製糸場も合併する片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業)に工場を買収される。
工場を失った彦七は故郷の依知村にもどり再起を図るがうまくいかず、結局1929年(昭和8)に80歳で亡くなる。
また横浜開港資料館には事業のピークだった明治20年代後半の萩原彦七製糸工場の生糸商標が所蔵されている。
そこには当時の八王子を含む三多摩郡が自由民権運動でキナ臭くなり東京府に移菅する以前のもののため「神奈川縣」の文字が見える。
(4) 多賀神社
機守神社と同じく八王子市内の機神を祀った神社のひとつである。
(5) 荒井呉服店
1912年(大正元年)開業のミュージシャン松任谷(荒井)由実の実家である。
先にも書いたように八王子は八王子駅周辺以外は土着な色の濃い街だ。
そんな土地に生まれ育って70年代後半~80年代にキラキラしたシティ・ポップを歌っていたユーミンは「闘っていたんだな…」としみじみ実感する。
(6) JR中央線八王子駅
【2日目】
(7) JR中央本線西八王子駅
(8) 叶谷住吉神社
境内に桐生の蚕影山神社より分祀された蚕影神社(本社は茨城県筑波)が祀られている。
しかし境内にふたつあった社はいずれもかなりぼろぼろで記名も無く、どれが分祠なのかは分からなかった。養蚕業の現状がまざまざと現れている。
(9) 八幡神社
大善寺の機守(はたがみ)神社や多賀神社と同じく、八王子市内の機神を祀った神社のひとつ。
養蚕業・織物産業が隆盛していた頃の八王子はそこら中で機神が祀られており、まさに「機神さまの村」だった。
それは織物業関係者にとって精神面の話だけではなく実利やメンツにも関わる重要な信仰対象だった。
「織り子たちは、七月七日の七夕には、大善寺詣でをし、短冊に『機が上手に織れるように』といじらしい思いを書き記した。
これは旦那さまやオカミさんにしかられないように早く上達したいという悲願と共に、直接給金を左右する切実な願いであった。
また、機場が女だけの隠蔽された集団であったので、暗黙のうちに先輩や朋輩の眼も意識される。」(※1)
「丹後地方では七夕を棚ばた、あるいは田畑と書き、七夕伝説の天女を田畑の神、織物の神として祀っている。」(※2)
現在ではかなり忘却されてしまったが、
このように往時の桑都・八王子には物理的な生糸・織物だけではなく桐生の白滝姫、常陸の金色姫、馬鳴菩薩、弁財天など形而上的な神々も各地から集まっており、人々の間でたしかに実在していたのだ。
(10) 中央自動車道(元八王子町宮野前橋)
(11) 武蔵陵墓地(多摩御陵)
古墳形式の御陵がある広大な山間部の皇室墓地。
造営時は多摩御陵と呼ばれ、昭和天皇陵が造られた後は武蔵陵墓地と改称された。
まず1927年(昭和2)、前年に崩御した大正天皇の多摩陵が造られる。
後に1951年(昭和26)に崩御した貞明皇后の多摩東陵、
1989年(昭和64)に崩御した昭和天皇の武蔵野陵、
2000年(平成12)に崩か御した香淳皇后の武蔵野東陵が加わる。
(12) 東浅川仮停車場(現:陵南会館跡地)
1927年(昭和2)皇室専用の御召列車の停車場として開通し1960年(昭和35)廃止した、現在のJR中央本線の西八王子駅と高尾駅の間に存在した多摩御陵への参拝者のための最寄りの仮停車場だ。
廃止の2年後に八王子市に払い下げられ、さらにその翌年集会施設の陵南会館となる。
1990年(平成2)に新左翼による爆弾テロ事件により焼失した。
またこの仮停車場の名称は無いがその周辺は吉田初三郎《京王電車沿線名所圗繪 (東京より多摩御陵)参拝近道》(1930)という作品の中でも描かれている。
吉田が京王電気軌動(現在の京王電鉄)の依頼で、一般の参拝者のために1931年(昭和6)に開通し1945年(昭和20)に廃止された京王電軌御陵線とその周辺を描いたものだ。
(13) JR中央本線高尾駅
【参考・引用】
◾︎ 辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』(1975 角川書店)(※1, ※ 2)
▪︎ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015 晶文社)
▪︎ 『八王子の産業ことはじめ』(編集:八王子市郷土資料館 2014)
◾︎「八王子こどもレファレンスシート 萩原彦七」(編集・発行:八王子市中央図書館 2010 ※2022改訂)
https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/016.pdf
◾︎「八王子こどもレファレンスシート 多摩御陵」(編集・発行:八王子市中央図書館 2011 ※2022 改訂)
https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/011.pdf
◾︎「写真でひもとく街のなりたち この街アーカイブス
東京都八王子 5:「多摩陵」の造営」
三井住友トラスト不動産
https://smtrc.jp/town-archives/city/hachioji/p05.html
◾︎『吉田初三郎 鳥瞰図集』(解説:岡田直 昭文社 2021)
◾︎ 原武史『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』「多摩陵への参拝、鉄道から車へ」(朝日新聞出版 2021)
《郊外の果てへの旅と帰還 #13(鑓水)》
アスファルトの下の魑魅魍魎
Fieldwork 鑓水
辺見じゅんによる『呪われたシルク・ロード』という書籍がある。
大まかに言えばこれは江戸後期から明治中期に関東各地で生産され中継地である「桑都・八王子」に集まってきた生糸を海外へ輸出するための窓口である横浜港に運ぶために現れた「絹の道」に関するエピソードが記述されている。
当時まさに近代化しつつある時代の日本の「絹の道」を走った有形無形様々なものを、とくに東京都八王子市内の鑓水という土地に絞って1970年代前半にリサーチし記述した民俗学の本だ。
1888年(明治21)に現在のJR中央線である甲武鉄道が開通すると生糸の輸送路としての役割は廃れていったが、そこは開港後の横浜から流れ込んできた文明開化のきらびやかなものよりむしろドロドロした血生臭いものの方がはるかに多く駆け抜けていった道だった。
それらは例えば以下である。
・鑓水商人(富と出世への野心を持った男たち)
・籠のような織場に閉じ込められた八王子など養蚕地の機織り女たちが過酷な条件下で働いて紡ぎ出した生糸や織物
・キリスト教
・自由民権運動
・武相困民党(1884年(明治17)に蜂起し多摩・相模を揺るがすが、鎮圧される)
・1923年関東大震災の発生直後の混乱下で流された朝鮮人暴動のデマ(横浜→原町田→小山→田端→鑓水)
・横浜から八王子監獄署(現:八王子医療刑務所跡地)に護送される咎人
・第二次大戦の出征兵士
現場を歩いてみると実感するが鑓水は平地が少なく丘陵と河川で入り組んだ狭い谷戸地域であり、そこに養蚕関連地が密集している。
そんな土地であるにもかかわらずまるで『八つ墓村』か『犬神家の一族』のような冥い情念が、動脈硬化のように吹き溜まっているように感じる。
実際に鑓水では以下の2件の有名な殺人事件が起こっている。
・1963年、道了堂老女(浅井とし)殺人事件
・1973年、立教大学助教授(大場啓仁)一家心中、教え子(関京子)殺害事件
辺見じゅんも先に挙げた書籍の中で以下のように記述している。
「大体あそこは変よ。…あんな小っぽけな村で、何人も豪商がでるなんてふつうじゃないわ。それも満足な死に方をしたのは一人もいないじゃないの。…絹の道だかなんだか知らないけれど、呪われた道よ。恨みつらみの道だわね。」(※1)
まず浅井とし殺人事件の現場である道了堂跡は八王子と橋本の間に位置する大塚山山頂の寺院跡だ。
今は建物すらなく鬱蒼としたこの場所は、すでに歴史に埋もれた八王子 - 横浜間の近代日本「絹の道」や養蚕業を象徴している。
そんな大塚山を南に下った目と鼻の先に絹の道資料館がある。
主に4家あった鑓水生糸商人の有力家のひとつで「石垣大尽」と呼ばれた八木下家の跡地に1990年に建てられた。
二代目当主の八木下要右衛門の代で繁栄を築き三代目の敬重のころに全盛期だったが、四代目で没落した。
二代目の要右衛門は強盗に殺されたとされていたが、実は放蕩三昧の息子との金銭的な揉め事が原因だったと言う。
明治初期に途絶えたこの家の屋敷跡は辺見じゅんが度々取材に訪れた1970年代前半には石垣のみが残っていたという。
また鑓水は未成線である「南津電気鉄道」の通過予定地であり、先の絹の道資料館の近くの大栗川に架かる御殿橋付近は「鑓水停車場」予定地だった。
南津電気鉄道は1926年(大正15)に着工した。武蔵野方面の府中から関戸で多摩川を渡り多摩丘陵を東西に横切り津久井までを結ぶ予定の路線だった。
しかし昭和初期の生糸の暴落で資金難に陥り中止となり、その際には出資者と工事関係者との間で少なからず揉め事や暴動が起こった。
また大栗川と柚木街道を南側に渡り少し歩くと大塚五郎吉屋敷跡がある。
気性が激しく「狼の五郎吉」と呼ばれて訴訟に明けくれた人生を送った生糸商人・金貸しの屋敷跡地だ。
五郎吉は狭い山間部の鑓水で生まれたため広大な土地を所有するという野心を抱いており、1843年(天保14)より九十九里浜の新田開発に乗り出した。
しかしこの計画は当時海岸に居住していた「芝虫」と呼ばれる百姓身分でない被差別民を「土地を所有する本百姓にするなど許せぬ」という、現地の貧しい百姓たちからの蔑視に動機付けられた反発を受けて頓挫した。
その後、のちに三溪園を造る原富太郎の先代である原善三郎と生糸取引をするなど横浜進出を目論むがすでに高齢すぎており、1873年(明治6)に亡くなった。
そんな五郎吉の屋敷跡は現在では何も残っておらず緑地と化している。
また大塚五郎吉屋敷跡から西へ向かい多摩美術大学八王子校を越えた町田市相原の路上に蚕種石という石が安置されている。
とは言っても社などは無くコンクリのブロックで作られた枠の中に吹き晒しで置かれているだけである。
かつて養蚕農家から「蚕の守護神」として信仰されていた蚕の繭の形の丸石だ。
八十八夜が近づくと石が緑色に変わって農家の者たちに蚕のはきたての準備の時期を知らせたという。
戦時中は土に埋もれていたが1965年に地元の柴田家に祭祀され、その後現在地へと移転されている。
以上に挙げたものの他にも養蚕関連地は存在するが一旦ここまでにしておく。
2010年代にすでに多摩ニュータウンとして郊外化しきっていた頃の鑓水の多摩美術大学八王子校に通っていた身としては複雑な気持ちになる。
少なくとも学生だった当時の私の眼には比較的小綺麗な地域に映っていた。
しかしせいぜい半世紀分のアスファルトをはがしたらそこには大量の虫ではなく魑魅魍魎が渦を巻いている。
ちなみに横浜から絹の道を通り咎人を護送した八王子医療刑務所跡地(2018年に現地から移転)である八王子駅南側至近の広大な土地は現在市民に開放された交流スペースとするため整備中だ(2026年完了予定)。
この一帯も近い将来、鑓水が多摩ニュータウンに飲み込まれたように郊外という小綺麗な蓋がされる。
そんな鑓水だけに限らず、日本中のそこかしこに吹き溜まった魑魅魍魎が表面的には隠蔽される潮流が生まれたのはやはり戦後からだろう。
「アメリカの生産力、科学、技術の力の前に、『日本的精神』とか『大和魂』とかいうものが太刀打ちできなかった」という先の敗戦への教訓から、60年代を経て大阪万博へと至る四半世紀は「科学の時代」だった。
当時は「経済成長や科学、技術の振興に対する…人々の強い希求」が「科学的に説明のつかないことを『迷信』『まやかし』として否定する…精神風土」が存在した。」(※2)
こうして経済成長を遂げた後から現在までの半世紀近く(80年代末からは個人的な実感を伴うが)、多くの日本人は「東洋人の顔して西洋人のふりしてる」(※Mr.children『光の射す方へ』1999)という時代の空気を徐々に無意識に内面化していったと感じる。
私含め、多かれ少なかれ誰もがそうだったと思う。しかし実際にはそんな時代は日本史の中では一時的で特殊な時期だったのではないか。
今ではこの70年代頃までの『八つ墓村』的ヴァナキュラーな魑魅魍魎こそが私たちの生きている場所の本来の姿だと言われた方が、正直納得がいくのだ。
【参考・引用】
▪ 辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』(1975 角川書店)
※1…P.277、作者の友人の言葉
▪ 内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(2007 講談社)
※2…P.39-41
▪ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015 晶文社)
▪ 『町田の民話と伝承 第一集』(1997 町田市教育委員会)
▪ LIFULL HOME'S PRESS
椎名前太(しいなぜんた)「八王子医療刑務所跡地に広大な集いの拠点の整備事業が進行中」
https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_01530/#hd_title_3
《郊外の果てへの旅と帰還 #10(小島烏水の相模の横断)》
小島烏水の相模野横断
小島烏水(1873 - 1948)は明治初期の高松に生まれた。
横浜正金銀行に勤める一方、旅行家で登山家であり、文芸評論家でもあり、江戸期の地誌や浮世絵風景画などの芸術にも明るく、自らも紀行文や風景論という形で多くの著作を残した。
柳田国男、田山花袋など当時の多くの文化人とも交流があった。
生まれは高松だが烏水の一家は1878(明治11)年から1927(昭和2)年まで何度か転居しながらも横浜市西区西戸部(通称「山王山」)周辺で暮らした。
烏水が本格的に登山にのめり込むようになったのは明治30年代(本人20歳代後半)以降だ。
自宅の二階から「秩父、大山、富士の新雪に光輝を帯びた連山を仰いで、狂喜した」と本人の記述があるように、少年時代から遠く関東西部の山々を日常的に目にしており、それはつまり山々に「見られていた」人でもあった。
明治初期の横浜で大量に流れ込んでくる西洋文化にふれながらも、まだ人が気軽に訪れるのも難しかった時代の西方の山脈に意識を引かれ続けていたという事実は、彼の思想に相当な影響を与えたはずだ。
そんな烏水は1906(明治39)年に相模野(現在の神奈川県中北部の平野)の踏査を行った。
山王山の自宅を出発し、保土ヶ谷、町田、淵野辺を経由して当麻へ向かった。
実際歩いてみるとかなりの距離だ。登山家らしく相当な健脚だったことが分かる。
私の絵画では「相模野」にあたる平野部である町田から当麻までを描いている。
国木田独歩『武蔵野』(初出1898年)を日本における郊外誕生のエポックと仮定すれば、烏水の相模野踏査は明治後期の「郊外の果てへの旅」(小田光雄)だったと言える。
自宅から日常的に目にしていた西の山脈の麓へ徒歩で向かうという、ちょっとしたフロンティアへの旅だったのかもしれない。
その踏査の様子は『相模野』という紀行文として1907(明治40)年に発表された。
今読むと当然のものである書き手の感性を通過させた文体だ。
登山家らしい地理に関する経験と知識にもとづいた垂直の俯瞰的視座を持ち、
相模野を武蔵野と、さらには富士裾野や那須野(栃木県北部)と比較する。
さらに相模野は地理上で武蔵野とかなり重なるとすら指摘している。
また踏査行程における土地の歴史を掘り下げており、そこから出て来た僧や武人への言及(淵野辺伊賀守義博、一遍上人、高座郡の坂東武者など)もある。
一方で行程の植生の描写も行う。
相模野は一大養蚕地帯でもあったため、近代日本を支えた養蚕農家による桑畑が頻出する。
生糸を運ぶ「絹の道」であった八王子・横浜間に横浜鉄道(現在のJR横浜線)が開通したのは1908年で、踏査の直前だ。
余談だが横浜鉄道開通以前に八王子から横浜へ鉄道で物資を運ぶ場合は、
甲武鉄道=中央線、日本鉄道=山手線、官設鉄道(国鉄)=東海道線と、鉄道国有化前のそれぞれの路線に対して運賃が必要だったため、
生糸商の原善三郎ら横浜の有力者によって直通路線の開通が構想されていた。
話を『相模野』にもどす。
その他に印象的な場面は、やはり国木田独歩『武蔵野』でも描写されていた、明治時代の文化人であった烏水と地元農民たちとの微妙な話の噛み合わなさや意識のズレがあぶり出されていた点だろう(いくらか農民への侮蔑的とも取れる表現もあった)。
彼らの間には近代的自我という溝が走っていることが透けて見えてくる。
そしてなにより記憶に残ったのは時折現れる文学的表現だった。
たとえば現在では護岸工場されてかなり直線的になった相模原市と町田市の間を流れる境川を「子供がいたずらに白墨(チョーク)で引いたような、ひょろひょろ線」と描写する。
町田のあるカレー屋の店主が子供の頃(1960〜70年代前半?)は現在の相模原市南区鵜野森あたりの境川はまだ護岸前で蛇行しており頻繁に氾濫していたそうだ。
当時の航空写真よりも、現在の相模原市と町田市の自治体間の境界線にその名残りがはっきりと見てとれる。
また淵野辺から当麻の無量光寺へと至る「何でもいいから動くものに遇いたい」と言うほどの「水に渇している」「茫々とした原」を、「北海道辺の殖民地」と喩える。
現在は相模原ゴルフクラブを含む相模原市南区の緑地から工場地帯あたりだろう。
そこからさらに南へ向かえば、後に東京都心の郊外化に飲み込まれた市ヶ谷からの移転を余儀なくされた旧日本陸軍士官学校演習場となる「相武台」(1937年に昭和天皇が命名、現在のキャンプ座間)が目と鼻の先であり、
まさに「茫々とした相模原」といった様子だったろう。
これらの記述からは、ほんの110年程前は河川沿いなど水場の近くでないと人の気配がない、つまり生活が困難であったことがよく分かる。
『相模野』は短い文章だが、現在の相模野との大きな違いと少しだけ残っている共通点が見えてくる。
【参考・引用】
▪ 寺田和雄編『ふるさと町田文学散歩 ー鶴見川・境川源流紀行-』2014 茗溪社 P.162-183/※『相模野』初出1907年
▪ 小島烏水 著・近藤信行 編『山岳紀行集 日本アルプス』1992 岩波書店
▪ 近藤信行『小島烏水 上 山の風流使者伝』2012 平凡社
▪ 横浜美術館『小島烏水版画コレクションー山と文学、そして美術ー』2007 大修館書店
▪ 屋根のない博物館ホームページ「資料 小島烏水 『相模野』から 相模野台地を横断した人」
http://yanenonaihakubutukan.net/4/sagaminodaitiwooudan.html
▪ 今昔マップon the web
https://ktgis.net/kjmapw/index.html
▪ 枝久保達也「生糸が結んだ「JR横浜線」、その113年の歴史とは」DAIYAMOND online
https://diamond.jp/articles/-/283546
▪ 茨木猪之吉《山上の烏水》1912
▪ 茨木猪之吉《石室の烏水》1927
《郊外の果てへの旅と帰還 #9(相模野 - 戦車道路)》
戦車道路(現・尾根緑道)
北に多摩丘陵、南に相模野と丹沢山地を臨む、東は桜美林大学町田キャンパス裏手の相模原市下小山田から、西は八王子市鑓水まで続く全長約8kmの尾根道。
西側は八王子市と町田市の境界にもなっている。
太平洋戦争中に戦車の試走のために使われた道だ。
旧日本陸軍が戦車を導入しはじめたのは1937(昭和12)年以降だったが、当初はあまり効果的に運用ができていなかったようだ。
しかし第二次世界大戦初期にヨーロッパを蹂躙したドイツ機甲師団の電撃作戦の影響を受け、
1942(昭和17)年、戦車道路周辺の土地を所有していた農家から半ば強制的に二束三文で土地を買収し、翌年多摩丘陵の南端にあたる尾根に戦車の試走のための道路を敷いた。
試走された戦車は相模陸軍造兵廠で製造されたが、それらの兵器(戦車・装軌牽引車・中口径砲弾弾帯など)の製造は多くの雇用を生み出し、当時造兵廠内では1万人以上の軍人と一般人が働いていた。
昭和初期から続く不況と開戦による日米通商条約の破棄による養蚕業(相模原は「絹の道」の沿道で生糸の一大産地だった)への打撃から、相模原の軍事施設は不況に苦しむ現地住民にとって重要な雇用先だった。
その従業員の通勤のために国鉄横浜線「相模原駅」が1941(昭和16)年に、「相模仮乗降場」(現・矢部駅)が1944(昭和19)年に開設された(※Wikipediaの「矢部駅」のページには1950年開業と記載されている)。
ちなみに現在の桜美林大学学生寮(桜寮)は相模陸軍造兵廠工員の宿舎だった施設だ。
そんな尾根を走る戦車道路、
そして境川を挟んだ南側のJR横浜線、
またその南側の戦時中は軍事輸送路でもあった国道16号線、
さらに町田駅とキャンプ座間(旧・日本陸軍士官学校)を結ぶ、戦中に昭和天皇が士官学校を訪れる際に使用した行幸道路といった、
それらの相模原を走る「線」。
一方で相模総合補給廠、
キャンプ座間、
現在は相模原市立博物館やJAXA宇宙科学研究所 相模原キャンパス、弥栄小中学校・高校、国立近代美術館アーカイブ施設などがある元キャンプ淵野辺(戦時中は陸軍機甲整備学校)などの、
相模原に散在する「点」。
現地を自らの足で歩き「点」と「線」をトレースすることで、相模野台地のスケール感を「面」として体感する。
そこから歴史を掘り下げることで、その土地に記憶されたミルフィーユのような、または何枚も重ねられたディスクのような「多面性」が徐々に明らかになっていく。
今回は軍都相模原という「面」(「層」と言ってもよい)にフォーカスをした。
やはりこの「多面性」を自分なりに積み重ねていくのが街歩きの醍醐味だろう。
【参考・引用】
▪ 『町田の歴史をさぐる』(町田の歴史をさぐる編集委員会:著、1978)
▪ 『町田市史 下巻』(町田市史編集委員会:編、1976)
▪ 『写真でひもとく街のなりたち このまちアーカイブス 神奈川県相模原 4:「軍都」として発展』(三井住友トラスト不動産)
4:「軍都」として発展した相模原 ~ 相模原 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産
▪ 内田宗治『町田と八王子の境界近くに存在 蛇行を繰り返す「戦車道路」とは何か』
《郊外の果てへの旅と帰還 #6 (相模野 - 幻の鉄道)》
幻の鉄道
淵野辺 - 上溝間の約5kmは県道57号線のすぐ裏の市街地に今は生活道路となった2本の線路の跡が残っている。
そこは度々計画が立ち上がりながら結局実現しなかった幻の鉄道路線だ。
一度目は1921(大正10)年、相模原・相模川方面と東京を鉄道で結ぼうという気運が高まった。
そこで相武電気鉄道という株式会社による鶴川→淵野辺→上溝→田名→愛川へと向かう路線計画が持ち上がり、1925(大正14)年に鉄道省から認可が下りた。
その後昭和初期の不況や相模鉄道(現:JR相模線)との上溝駅での路線の交差で揉めるなど何度も躓きつつも、1930(昭和5)年には淵野辺 - 上溝間の線路を引き終える。
ところが運行直前まで漕ぎ着けたものの、訴訟や債務の問題が解決できず結局1936(昭和11)年、路線敷設免許取消しとなった。
二度目は1940(昭和15)年、相武電鉄が上溝での交差で揉めた相模鉄道(現:JR相模線)による、上溝→淵野辺→鶴川→稲城→府中へ至り西武鉄道多摩線と接続するという計画が立ち上がる。
しかしこれも相模鉄道の経営権を握っていた昭和産業の有力者が相次いで亡くなるなどで中止となっている。
三度目は1943(昭和18)年、旧日本陸軍兵器学校からの要望で当時の小田急電鉄取締役社長だった五島慶太による、鶴川→淵野辺→上溝、さらに相武台下→厚木へと路線を繋ぐという延伸計画があった。
五島は当時「相模原新都振興会」の副会長であり、いわゆる相模原の「軍都計画」に関わっている。
これが実現していれば相模野台地から町田市中央部にかけてをまるっと包囲するような小田急の環状線ができていたわけだ。
当時は小田急電鉄、京浜電気鉄道(現:京急)、京王電気軌道、相模鉄道といった東京西部の中央線以南の私鉄のほとんどが東京横浜電鉄(現:東横線)に合併されていた「大東急」(1942〜48、戦時統制下の東京急行電鉄)の時代だった。
しかし結局この計画も戦況悪化による資材不足などで頓挫した。
四度目は1958(昭和33)の鶴川→矢部→星ヶ丘→田尻→田名を経由して城山へと至る小田急線延伸計画だ。
こちらは正確には淵野辺を通らず、矢部から上溝の南方面を通過する路線だ。
当初歓迎ムードだった相模原市など地元自治体も、同年に公表された小田急側の条件(自治体の出資、免税、沿線の住宅建設要請など)を不服として計画は停滞。1968(昭和43)年に撤回した(『相模原市史 現代通史編』P.501には1961(昭和36)年に「新線計画を事実上撤回した」と記述されている)。
その背景には1963(昭和38)年に持ち上がった多摩ニュータウン構想を受けて具体化してきた、多摩丘陵方面へと向かう新線計画も存在した。
鞍替えしたように進められたこの計画は後に小田急多摩線として1975(昭和50)年に新百合ヶ丘 - 小田急多摩センター間が開業する。
その後1990(平成2)年の唐木田までを最後に延伸は打ち切られている。
しかし近年その小田急多摩線を相模原、上溝方面へ延伸する計画が立ち上がっており、
米軍相模総合補給厰の一部返還や公金の投入、相模原駅北口の再開発の見込み、橋本を停車駅とするリニア中央新幹線との兼ね合いなどで、少なくとも相模原駅までは実現の可能性はあるようで、関係者会議の調査では2033(令和15)年開業を想定している(2019年5月時点)。
しかし上溝までは収支採算性の課題が解決できず、「小田急多摩線延伸・上溝駅開設推進協議会」は2022年5月28日に5年以上続いた活動を休止した。
以上、現在調べた限りでは(多少進路を変えつつも)この路線は四度計画が頓挫している。
五島慶太の小田急環状線計画がとくに顕著だが、これらのどれかが実現していたら明らかに現在の小田急沿線駅の繁栄勢力図も変化していたはずだ。
鉄道路線の交差点である鶴川・淵野辺・上溝が現在の橋本・町田・相模大野くらいになっていたかもしれない。
上溝から新宿へ直通するわけだから、現在の沿線の人口やインフラが比較的近年に京王線で新宿と結ばれた橋本ではなく上溝へ、
また町田や相模大野のいくらかが淵野辺や鶴川へ移っていた可能性がある。
さらに仮定に仮定を重ねて1941(昭和16)年の柿生離宮計画が実現していたら、と考えると鶴川 - 上溝ラインの重要性は一気に跳ね上がる。
このような俯瞰的な想像は楽しい。
あと資料のひとつ『鹿嶋さまの杜は見て来た』の文中で「橋本・町田・本厚木という大三角形鉄道網」(P.227-228)という記述があり、私の作品《郊外の果てへの旅と帰還 #2(橋本 - 町田 - 海老名 デルタ)》とほぼ同じ発想が書いてあって笑ってしまった。
個人的に絵画のモチーフにもしたこの相模野の都市・郊外を包摂する大三角形を「相武デルタ」と勝手に名付けることにする。
【参考・引用】
▪ 『鹿嶋さまの杜は見て来た』(発行:細谷隣、株式会社アトム、2002)
▪ 『相模原市史 現代通史編』(相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館 編、2011)
▪ 森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉 夢破れて消えた鉄道計画線 実地踏査』(JTB、2001)
▪ 『相模原経済新聞』(2021/10/27 夕刊) 井上与夢「いま、光る都市(まち)さがみの 46 百年の計」
▪ 『小田急多摩線延伸に関する関係者会議 調査のまとめ』(相模原市・町田市)
▪ 俺の居場所「相模原市淵野辺〜上溝間の不思議な区画」
https://urban-development.jp/blog/search/fuchinobekukaku/#toc6
▪ 相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館
▪ 相模原情報発信基『幻に終わった相模原の鉄道「相武電気鉄道」』