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Fire of Argus

〜アルギュスの送り火〜

ARTIST

SHINPEI SASADA・MARINO KAI

Open

2020.2.23[Sun]~3.7[Sat]

2020年2月23日、25日、27日、28日、2020年3月1日、3日、5日、7日開廊)

16:00~21:00

Venue

CRISPY EGG Gallery

3-17-5 Fuchinobe chuou-ku sagamihara-shi kanagawa-ken Japan

この度開催される「Fire of  Argus〜アルギュスの送り火〜」は、2月14日から4月12日まで川崎市岡本太郎美術館にて展示中の私の作品「Jericho's raft and fifteen guardians 〜ジェリコーの筏と15人の守護者〜」に対応する展示である。
「Jericho〜」は、ロマン派の画家テオドール・ジェリコーが実際に起きた海難事故を扱った作品「メデューズ号の筏」を下敷きに制作した作品である。実在するアイドルグループRAYのメンバーである甲斐莉乃をモデルに迎え、あり得たかもしれない15人のアイドル像を描く。
絵の周りには15人の別人格(性格も年齢も違う)の甲斐莉乃と、そのファン(守護者=guardians)との「チェキ」が飾られ、絵の下にはかつてアイドルだった者の抜け殻としての「衣装」132着が配置される。
この数字は、先のジェリコー作「メデューズ号の筏」での海難事故における生存者15名と死者132名と符合している。
さて本展示では、その対応展示としてモデルを務めた甲斐莉乃自身が考案した15のキャラクターデザインや、性格設定、衣装、音声、デッサンなどを展示する。
タイトルにあるArgus(アルギュス)は、メデューズ号の難破事故から脱出した筏を発見し、生存者15名を救出した戦艦の名である。  Argusに運ばれてこの地に来た15の魂は、モデルである甲斐莉乃の創造性と合わさることで、岡本太郎美術館の作品とはまた違う姿へと形を変えるだろう。

2020年1月笹田晋平

笹田晋平

SHINPEI SASADA

STATEMENT

絵画という時代遅れの表現について死ぬほど迷い疑いながら新しいものを作ろうとしています。
今は油画というものを日本で描くことについて考え過ぎた結果、日本が輸入しきれなかった西洋の大画面構図を用いて日本文化を象徴するアイドルを描いています。
日本の現代美術の現状を憂いている皆さんは、僕から目を離してはいけません。(笹田晋平)

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 "Emperor lesson no.2"   2019 Oil on Canvas 1167×1167mm.
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 "Return of prodigal son"   2018 Oil on Canvas 1303×3000mm.  Photo by Ohshima fine art
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 "シャケ涅槃会"   2018 Oil on Canvas.Dish.food sample etc... 2270×4000mm.
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 "三崎町No2"   2017 Oil on Canvas. 333×220mm.

INTRODUCTION

本展示は第23回岡本太郎現代芸術賞入選作品展で展示中の笹田晋平作「Jericho's raft and fifteen guardians 〜ジェリコーの筏と15人の守護者〜」と対をなす展覧会であり、両展示を往復することにより展示が完成する。

 

岡本太郎現代芸術賞(2020年02月14日 (金)-2020年04月12日 (日))は日本における現代美術作家の登竜門として、多くの作家を輩出し、現行では最も影響力のある現代美術の賞の一つである。

 

この賞の特徴は選考にある。

選考は2回で、一次審査は書類選考。最終審査は川崎市岡本太郎美術館で展示を行い、その展示の良し悪しによって大賞が決定する。作品を並べて審査員が次々と点数を付けてく、という昔ながらの形式ではなく、作家によるプレゼンなど含めた展示全体への採点が行われ、作品単体の評価は加点の対象とならない。また展示は一般に公開され、観客は受賞者も非受賞者双方の展示を見ることができるため、審査員自体もその受賞の正当性を観客に審査されている、というものだ。

よって、笹田がコンセプト文などで、岡本太郎現代芸術賞を「展示」と捉えているは、岡本太郎現代芸術賞の審査形式によるものだと考えていただきたい。

 

ちなみに笹田晋平は2年前の第21回岡本太郎現代芸術賞(2018)にも入選(一次選考通過)しており、岡本太郎美術館では二度目の展示となる。

 

 

2018年、笹田は岡本太郎現代芸術賞に「シャケ涅槃会」という作品を発表した。中央に横たわり涅槃に入ろうとする釈迦をシャケの切り身へと姿を描きなおしたダジャレの作品だ。さらに両サイドには高橋由一の描いた「鮭」を模した絵を飾り、ダジャレ仏画を中心とした祭壇のようなものを作り上げていた。

このシリーズは笹田が発表し始めた頃からのテーマで、肉やシャケなど食べ物をモチーフとし、美術史をからかうようなシリーズとなっている。

 

一方、今回同様、第21回岡本太郎現代芸術賞と合わせて開催された個展「I will neglect nothing」(Ohshima fine art)ではアイドルグループをモチーフとする作品を初めて発表した(「dots Tokyo」協力)。整理された背景とモデルたちは笹田によって綿密に構成され、絵画の中に幾何学的な構図が現れるように配置されている。

その存在自体はかなり怪しいものではあるが「黄金比」など、参考書に描かれているような西洋古典主義的な手法を取り込んだ構図によって、描かれたアイドルたちを宗教画のように描くことに成功していた。

 

同年、8月にはCRISPY EGG Galleryにて「Dance in the palace」を開催。

「I will neglect nothing」にて描かれたアイドルというモチーフを引き継ぎ、翌年(2019年)に控えた天皇の代替わりをテーマとした。この時はバロック時代の巨匠ニコラ・プッサン(1594~1665)の方法論を採用し、画面内の空間を舞台のように考え「背景」と「演者」に切り分けるような構図を描こうと試みた。また、天皇の代替わりの祭り「大嘗祭」の場面をアイドル(偶像)に演じさせることで、天皇制と現代日本の関わりについて問いかける内容となっていた。

 

モチーフは変わっているが、笹田が執拗に美術史を引用する背景には、西洋古典主義時代の油彩画を日本に再インストールする、という笹田のテーマが隠れているからだろう。

アイドルのモチーフを採用するのも日本の美術史があまり取り扱わなかった「群像」という描き方に注目しているからだ。

群像は歴史画や宗教画の主要な描き方だ。笹田はそのような群像を再現することで、日本が明治に美術を輸入するときに置き忘れてきた、印象派以前の油絵の歴史が再インストールできるのではないかと考えている。

 

今年の岡本太郎現代美術賞の作品は、ルーベンスのようなドラマチックな構図を群像劇として描くべく「Jericho's raft and fifteen guardians 〜ジェリコーの筏と15人の守護者〜」を制作した。

笹田のステートメントにもある通り、アイドル・甲斐莉乃をモチーフとして、架空の15人のアイドルを劇的な構図で描くことを試みる、という。

 

一方本展「Fire of Argus ~アルギュスの送り火〜」は、笹田の「油彩画の再インストール」というテーマは取り外され、「Jericho's raft and fifteen guardians 〜ジェリコーの筏と15人の守護者〜」に描かれたモチーフ自体が笹田の手を離れ、主体性を取り戻す展示となっている。(便宜的に主体性を書いたが、この「主体性」については、是非とも以下RAY運営による解説を参考にしていただきたい)

モデルの甲斐自身が、音声や衣装など細かな設定を作り上げ、まるで実在するかのように15人のアイドルを造形する、という展示となり、これは「(他者によって)描かれた架空の15人のアイドル」という構図そのものへの応答となる。

 

繰り返しになるが、グランドデザインを描いたのは笹田である。また笹田と甲斐は作家とモデルの関係でもある。あえて強引な言い方をすれば、笹田と甲斐の関係において支配的な構造があるのではないかと勘ぐってしまう。しかし、本展では笹田と甲斐が並列して作家として名を連ねていたり、DMには笹田のステートメント文中に甲斐のメッセージが聞けるQRコードが組み込まれていたりと、単に2人展ということではないし、「描く」「描かれる」という構図からも脱臼され、むしろ笹田から甲斐に対する奇妙な依存関係が見え隠れする。

 

本展は非常に良質なアイドル批評となることと思われる。

是非とも川崎市岡本太郎美術館と合わせて鑑賞していただけたらと思う。

​(2020年1月石井弘和)

 

【備考1】

「第23回岡本太郎現代芸術賞」

会期

2020年2月14日(金)~2020年4月12日(日)

会場

川崎市岡本太郎美術館

開館時間

9:30-17:00(入館16:30まで)

休館日

月曜日(2月24日を除く)、2月25日(火)

観覧料

一般700(560)円、高・大学生・65歳以上500(400)円、中学生以下は無料 ※( )内は20名以上の団体料金

【備考2】
個展「I will neglect nothing」にて発表された作品
「Et In Tokyo Ego」
Oil on canvas
227.3×181.8cm
2018
Photo by Ohshima fine art
Et In Tokyo Ego.jpg

【作家略歴】

 

1984 大阪府生まれ

2007 神戸大学 発達科学部卒業

 

主な個展

 

2007

トーキョーワンダーウォール2007(東京都庁)

2008

TWS-Emerging109「法華経フォン・ド・ボー」(トーキョーワンダーサイト本郷)

2010

「ホメオカオスの油壺」(Ohsima Fine Art )

2012

「前田荘バロック」(Ohsima Fine Art )

2018

「I will neglect nothing」(Ohshima fine art)
「Dance in the palace」(CRISPY EGG Gallery)

 

主なグループ展

2018
「第21回岡本太郎現代芸術賞入選展」(川崎市岡本太郎美術館)
 「Seattle Art Fair 2018」(Century Link Event Center)

 

受賞歴

 

トーキョーワンダーウォール賞(トーキョーワンダーウォール公募2007)

第21回岡本太郎現代芸術賞 入選(2018)

第23回岡本太郎現代芸術賞 入選(2020)

甲斐莉乃

MARINO KAI

STATEMENT

風景に佇む女の子の絵を中心に描いてます。
一瞬の出来事や記憶や空気を作品から感じ取ってもらえたら嬉しいです。(甲斐莉乃)

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 "晴天金曜日"   2019 Digital 2039×1378px.
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 "逆夢"   2017 Digital 1378×2039px.
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 "thought circuit"   2016 Digital 2039×1378px.
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 "星に願いを"   2019 Digital 1920×1378px.
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 "もやし"   2016 Digital 1378×2039px.

INTRODUCTION

甲斐莉乃は1998年生まれ。

2014年よりPixiv主催の「つくドル!」2期生としてアイドル活動を開始。以降、アイドル活動を続け、現在ではアイドルグループ「RAY」に所属し、ライブなどを行なっている。

作品は中学校時代からPixivを利用し制作発表。「つくドル!」時代にはアイドル活動の一環としてではあるが、岸田メル氏ふせでぃ氏などプロの作家に師事。現在に至るまで発表を続けている。

 

甲斐の作品では、女の子(特に女子高生)がモデルとして登場し、背景にはどこでもある街の風景や教室が多く描かれる。

Pixivを利用して発表していたということもあり、デジタル(クリップスタジオ)での作画が多い。そのため、写真の取り込みを背景制作のベースとしており、風景の描き込みは細かく現実感がある。

しかし、モデルと舞台設定だけ見れば「高校生が街や学校にいる」というとても現実的な設定であり、かつ写実的な表現だ。しかし画面内で起きている事態は、大量の物が浮遊していたり、高校生がお金をばらまいたり、と魔法のように非現実的である。

また、時間帯も夜や夕方などが多く、人気(ひとけ)がない。それがまた非現実的な感覚を強く持たせる一因となっている。

 

何を考えているのかわからない、表情の浮かない女子高生をモデルとして中心に据え、現実感の強い舞台とそこで起きる非現実な状況が一枚の絵に描かれる時、甲斐はそこに何を見ているのだろうか?

 

甲斐は学校に居場所を感じなかった、と語っている。

いじめなどの過酷な状況に置かれていたわけではないが、他者との関係を維持することはなく、友人たちとも仲良くなりたいとも思わなかったそうだ。

その原因を作品から知ることはできないが、甲斐にとってその学校生活は、「自分の居場所はここではない」という思いを募らせていく毎日であったことは想像に難くない。そして2014年、つまり16歳の時に彼女は「つくドル!」に応募し、アイドルになることになる。

 

彼女の活動は一見するとアイドルとイラスト制作に分けられる。いずれも「表現」という言葉で括ることはできるが、活動内容の方向性があまりにもかけ離れている。しかし、甲斐は切り分けない。

 

その理由は、彼女の名前が示しているかもしれない。

 

異なる活動を行う場合、その活動ごとに名前を変える、ということはよくある。甲斐の場合であれば、芸能活動の時と作家活動の時は異なる名前があっても良い。しかし、甲斐はアイドル活動とイラスト制作での名を両方とも「甲斐莉乃」としており、切り分けていない。これは甲斐にとって、アイドル活動とイラスト制作は自己統一されたものであり、裏表の関係にあると言える。

 

甲斐にとってアイドルの活動とは、学校生活では得られなかったものを取り戻すために行っているもの、なのだという。学校生活で得られなかった人間関係や、自己実現が、甲斐にとってのアイドル活動なのだとしたら、その裏表関係にあるイラストは何を取り戻そうとしているのだろうか。

 

甲斐の絵には他者がいない。女子高生しかいない。

しかし現実空間には居場所がなかったと感じていた甲斐にとって、いないのは自分の方だったはずだ。

 

登場人物に自分を投影させてはいないと甲斐は語る。

しかし彼女の語る人生を振り返るに、「自分にはなかった時期を過ごす女の子」は、反転して甲斐自身の投影であると考える方が自然だ。

 

現実空間に居場所を見出すことができず、非現実的とも言えるアイドルに居場所を求めた甲斐にとって、あの頃の学校生活こそが非現実的で、「不思議の国のアリス」のアリスように不思議の国に迷い込んでしまっていただけで、今のアイドル活動の方がはるかにリアリティを感じている場所なのかもしれない。

 

とすれば、繰り返し描かれる女子高生の日常は「一人だったのは自分がいなかったからではなく、みんながいなかったのだ」と過去の自分を必死に上書きし、肯定してあげようともがいているようにも見える。

 

透明感のある絵とは裏腹に、甲斐抱えていた孤独や閉塞感が隠れている。

 

本展では甲斐の活動全体を俯瞰する展示となるとのこと。

笹田の作品と合わせてみていただけたらと思う。

(2020年1月石井弘和)

【作家略歴】

 

1998年 生まれ

アイドルグループ「RAY」所属のアイドル

Pixivを中心にデジタルのイラストを発表。

 

主な個展

 

2019

「403 Forbidden」(Ohsima Fine Art )

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​甲斐莉乃

RAY運営

COMMENTARY

地下アイドル文化を知らない人のための地下アイドル文化入門​


あなたにとってアイドル(文化)とはどういうイメージだろうか。南沙織、山口百恵、松田聖子からおニャン子クラブまで、70〜80年代のテレビアイドルを思い浮かべる人もいれば、90年代後半から00年代のモーニング娘。をグループ内部を描くドキュメンタリー的娯楽として楽しんだ人、AKBグループが牽引したいわゆる「地下アイドル」の現場に通っていた人、最近ならBiSHの楽曲に酔いしれている人まで、さまざまだろう。また安室奈美恵やPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅがアイドルかと聞かれれば、人によって答えが違うのではないだろうか。

今回CRISPY EGG Galleryで展示を行う甲斐莉乃は、この中では地下アイドル(ライブアイドル)に該当するグループ「RAY」のメンバーである。地下アイドル(文化)は00年代後半から注目され、集客が増え、メディアにも取り上げられるようになった。しかしその内実については、実際に現場に定期的に通っている人や、識者が書くアイドル文化批評を読み漁っている人でもない限り、未だに表層的な理解に留まっているようにみえる。紙幅の都合アイドルの総体を概説することはできないが、地下アイドル文化についての批評的な側面を記すことで、本展示の事前のガイドとして機能すれば良いと思う。


地下アイドル文化の理解には、テレビアイドルとの比較という補助線を引くとわかりやすい。70〜80代のテレビアイドル(かつては「スター」と呼ばれた存在も同様である)は容姿や能力によって人に憧れられ、一方通行のメディア(テレビやレコード、CD)に露出し、彼女たちをプロデュースする大人たちの枠組みでキャラクターを演じる存在であった。一方現代の地下アイドルは、未熟さを前提とした上で、真剣さや熱量、成長の過程まで含めて双方向コミュニケーション(SNS、ライブ会場(=現場))で楽しむものである。キャラクター以上に、SNSや動画サイトや現場で否応なく漏れてしまう「ありのまま」感を応援する。ただし重要になるのは、アイドルという娯楽に対する消費形態の違い以上に、消費者(=ファン)の欲望レベルでの違い、そしてアイドル側の主体性に対する意識の違いだ。

ファンの欲望レベルの違いから述べよう。地下アイドルのファンがメンバーを応援する(=「推す」)とき、成長を見守る欲望だけでなく「成長させる」欲望、すなわち介入の欲望を持つ。80年代までのテレビアイドル時代のファンの欲望が、演じられた(強烈な)キャラクターから影響を受けたいという被影響の欲望だとすると、地下アイドル時代になってからはそれに加え、アイドルに影響を与えて変容して行くさまを見たいという欲望を含むようになった。未熟さへの愛好はある意味擬似親子的だが、ときに擬似友人的、擬似恋愛的であり、友人や恋愛対象に向ける感情を味わえることもまた娯楽(そして推すことの苦悩)の一部となっている。

アイドル側の主体性という点ではどうか。テレビアイドルが与えられたキャラクターや「アイドルらしさ」を演じるか、それに対して(引退を含む)反発をするかによって主体性の狭間で揺れていたのに対し、地下アイドルは極めてメタ的な主体性を持っているという点である。「アイドルらしい振る舞いをするか」「大人に対して素直か」などがアイドル自身で調整できるパラメータとなり、さらにそれを調整しキャラクターを自己操作している様子までを開示しキャラ化できるようになる。かつての「主体性の狭間で揺れる悩み」もまた、吐露すること自体がキャラ付けの作法として頻用される。ここまであらゆるキャラクターが許容されるようになると、アイドルは「私はアイドルです」という自称と現にファンがいるという事実性のみで定義されるようになる。一方で、メディアや現場を介して漏れてしまう「ありのまま」は、演技と素の境界をファンだけでなくアイドル自身にとっても曖昧にしてしまい、公私の区別をあやふやにしていく。そこに、ファンがどれだけ職業としてのプレイだと言い聞かせても、目の前にいるアイドルに真実性や本物性を見出してしまう余地がある。


以上の2点から生まれるのが、「半主体性」的な現代アイドルの生き方である。アイドルは将来の夢やファンに見せたい自己像といった自身の欲望を(当然)持つ一方で、ファンから現場やSNSを介して恋愛的側面も込みのさまざまな介入を受ける。またアイドルグループのあり方は00年代後半以降極めて多様化したため、コンセプト、楽曲、衣装、パフォーマンス、SNS運用など活動のあらゆる側面に渡り実質的に「なんでもあり」になっており、運営や周囲のクリエイターにとってビジネス・自己表現双方の文脈から新規コンテンツを試す実験場となっている。「創造的な実験をしたければアイドルを使え」という潮流が、10年代前半には確かにあったように思う。アイドルはこれらの思いを受け止めて自己を変容させ好かれつつ(好かれることがアイドルの本来的な要件である)、それらを利用して自己の欲望を通すために振る舞いのチューニングを行う。一方でアイドル以外のプレイヤー(ファンや大人)は、自らの介入によりアイドルが身体的、精神的に破綻してしまうことがないよう、意識的・無意識的に相互に配慮を行う。全プレイヤーにとって前提となる大原則は、欲望の調停が行われるアイドルという「場」が存続することであり、特定のプレイヤーの過剰な介入には自然なブレーキがかかるようになっている。

地下アイドル文化の公共圏では、アイドルが大人の「操り人形」だという古い見立ては誤っているし、その被害者化は(一部の悪徳運営グループを除けば)アイドルに対して礼を失することになる。多様化の果てに現代社会に残ったほぼ最後の規範である「自由たれ」「主体的たれ」という強迫に対し、別の解を提示したのが地下アイドル文化なのだから、そのような見立ては一周遅れなのだ。「あなたはどれだけ自由で主体的か」という問いを立てることそのものが、当のアイドルにとって暴力的に機能しうるといって良い。地下アイドル文化に触れたとき、アイドルを守ろうとする姿勢から発される問いかけの言葉自体に再考を迫られ、自身が前提としている価値観の変容を迫られることになるだろう。それこそがアイドル批評が剔出しようとした現代社会への第一の批評性だった。


さて、アイドルと同様の変化はアイドル以外のプレイヤーにも生じる。SNSと違い現場ではファン自らもアイドルや他のファンから眼差される存在になるため、公共的な振る舞いが要請される。いわゆる”接触”(アイドルと一緒に写真を撮影するチェキ会やオフ会など)でアイドルと近接するなら身だしなみを整えなければいけないし、自身の振る舞いについて他のファンからの評判が悪くなれば、推しているアイドルの名を汚すことになる。周囲に評価されていない人物からのアドバイスはアイドルから低く見積もられるため、当のアイドルへの介入も非効率になるだろう。かくして、アイドルほどではないが他のプレイヤーにも欲望の自制が要求されることで、上からの規範抜きに自然発生的なルールが生まれてくる。ファンも運営も、自分の欲望を通しきれない中で、価値観を変えて成長していく経験をする。この点も批評的に、価値観を共有しないプレイヤー同士の公共圏でどのようなルール形成が可能かの一つのモデルとして評価されている。

また性愛や資本主義といった露骨で暴力的な力が、アイドル文化圏ではむしろ倫理をもたらしている点にも注意が必要だ。アイドル文化は原則として相互承認の文化であり、アイドルはファンを、ファンはアイドルを肯定し、肯定される。簡単に共依存に陥りそうな関係だが、実際にはそうはならない。なぜかといえば、性愛的な関係や同一化への欲望は、恋愛禁止ルールや全てのファンに平等に接するというアイドル性の前提、「所詮はビジネスであり金銭を媒介にしている」というふとした瞬間にやってくる冷めた視線などによって定期的に頓挫するからだ。また長く通えば通うほど、ファン自身の考え方とは合わない部分が見えてくるようになる。そのことによって「あなたは推しメンと恋愛的に結ばれないし、そもそもあなたとは当初の想像以上に価値観の異なる人間であるが、それでも推すか」という自問自答をファンは行うようになる。アイドル文化はそうして”正当に”ファンを傷つける。最初から結ばれないとわかっている関係ではなく、もしかしたら("ワンチャン”と表現されることが多い)結ばれるかもしれなかった関係だからこそ、好意を抱えた苦悩の果てに生じてくる倫理がある。

「異質な他者を受け入れましょう」。そんな多様性の受容を強制されることに辟易した気分が社会に広がりつつある現在、アイドル文化は全く別の回路で公共性にアプローチする。「あなたが受け入れた人が、実は異質だったと受け入れましょう」。これがアイドル文化の第二の批評性である。


…以上のような点が、多くの批評が明に暗に求め評価していた、ポストモダン的な個人の生き方の、そして公共性のあり方の、現在までその有効性が衰えない新しいオルタナティブだったと思う。

しかし10年代後半になると、地下アイドル文化は変質を遂げていく。3つの潮流を挙げるなら、本格化、環境化、「主体」化である。軽く説明する。


本格化とは何か。実はそもそも、アイドルの歴史自体が素人性と本格性を行ったり来たりするものであり、特に90年代前半(当時はまだテレビの時代だった)は「アイドル冬の時代」と呼ばれ、本格志向から「アイドル」的=素人的なものが忌避される時代だった。その時期、80年代ならアイドルを目指したような女の子たちは、こぞって「アーティスト」を目指し、「アイドル」はネガティブな意味合いを持つ語として機能した。現在まで続く「アイドルを超えた〇〇」というフレーズには、その名残があると言って良い。10年代後半は決してそのような意味で再度アイドル性を否定したわけではないが、多様化が行われきった先に、王道が回帰するようになる。それは「アイドルらしさ」を重視する王道アイドルという意味だけではなく、楽曲の本格性や、演出のアート性、ダンサブルなパフォーマンスの格好良さなどによって、奇異さではなく既にあるパラメータを上げ切ることで質を改善し本格を目指すという方向性である。十分に上げた質は新規性として機能する。

また、アイドル文化圏が持つ公共性の弱点の一つが男女比だ。「半主体性」は現在まで有効なポストモダンの主体像である一方、アイドル文化圏には男性が多すぎるため、量の圧力によって結局女性アイドルは欲望を通しにくい。そこで女性アイドル自身や、グループ運営にブレない軸を持ち込みたい大人は、アイドル公共圏において人間同士のコミュニケーション以外の力を味方につけようと考える。それは何らかのコンセプトかもしれないし、地理性や歴史性かもしれないし、アイドル文化以外の文化かもしれないが、人間のスケールを超える「大きなもの」と繋がることで、現場やSNSに溢れるプレイヤーの言葉に左右されにくい指針を手に入れるのである。そのようなグループはファンによる介入を受けにくくなるため、良くも悪くもテレビアイドルに近い存在へ逆戻りする。別に誰かが使っている言葉ではないが、ここではそのような双方向性の余地をむしろ削減する動きを環境化と呼んでおこう。

そして最後の「主体」化は、アイドルのキャラクター差異化戦略や、自身のメタ的なキャラクター設計への疲弊、また女性ファンを自身に多くつけたいという思いに、政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)が結託して生まれた路線である。反アイドル的な振る舞いを自身の「普通ではなさ・特異性・オリジナリティ」「自尊心・自立心・自律・自由」「庇護されるべき弱い立ち位置」などの記号として利用することは以前からあったが、それがベタになり、ありのままをさらけ出さなければいけないという新しい規範として機能するようになっている。結果的に、偽悪的なまでの自身の素性の暴露や、社会的(少なくともアイドル性的)に許容されにくい振る舞いが率先して行われるようになり、その正当化が行われるようになる。「私を全肯定できないならファンではない」という態度が生まれ、「私を肯定できないあなたは、他者に、多様性に不寛容で、人間らしさを愛せない存在である」という倫理的な圧さえ生まれてくる。アイドルの本来性、すなわち「誰のことも好き、誰からも好かれる」という特質から真っ向から対立しそうなこの態度は、我儘なお姫様と可愛がられるのではもちろんなく、男性的欲望の結晶である「アイドル性」に縛られないという点でポリコレ的に正しいもの、「主体性」を確立したあるべき姿として一部の熱狂的な(主に女性)ファンに受け入れられている。


これらの流れには、当然昔から(といっても5〜10年前くらいから)のアイドルファンや、アイドル自身からも疑義が投げかけられている。本格すぎるアイドルは確かにその楽曲やパフォーマンスに感動するが、アイドルに求める優しい雰囲気の楽しさとはやはり異なり、また「本格ではないこと」こそが持っている価値を毀損する。現在、「アイドルを超えた○○」というフレーズは二重の意味でアイドルファンから否定されている。一つはアイドルのコンテンツが良質であることなんて既にわかりきっているからであり、もう一つは、高まりすぎた質がわかりやすさや親しみやすさを損なうとき、アイドルとしての最大の美点を損なってしまったように感じてしまうからである。環境化もまた、ファンとの距離においては遠ざかる方向であり、寂しさを感じるファンがいるのも確かだ。

そして偽悪的・露悪的なまでの「主体」化は、日本ではことさら80年代以降社会の(根本的には性別を問わず)あらゆる文化圏や場面でみられ、新しさはない。通底する現象としては、女性アイドルにおける彼氏の存在や果ては結婚まで、そのアイドルのことを本当に大切に思っていて推したいのであれば、そのようなプライベートにおける充実をファンは許容し祝福するべきだと暗に強制する流れがある。明らかに近年のアイドルはこの流れを自覚して振舞っているし、ファンがそれに非難・批判の声をあげようものなら多くの人間から叩かれるだろう。しかし、数十年前から始まっているこの”正しすぎて古い”「主体」化の論理にNoと異議を唱えうるのが、遅れて生まれてきた地下アイドル文化の本来的な価値の一つのはずで、この論理をなんらの逡巡もなく受け入れられるのであれば、アイドル文化は社会と同じ論理で動く「部分」でしかない。「主体」化を直感的に受け入れられないファンは、以上の意味で「主体」化が「新しさに見せかけた反動」として見えていて、つまらなさを感じているのである。


極めて雑ではあるが、現時点までの地下アイドル文化を概観してきた。現在活動している地下アイドルグループは、多かれ少なかれ以上の文脈からフリーではいられない。アイドルがどのような振る舞いをし、どのような活動に手を出そうが同じである。甲斐莉乃の展覧会もアイドル文化を取り巻く状況が前提となっているし、10年代前半までの地下アイドル文化の性質が確立される時期と、それが変質する時期双方からの距離が視野に入れられている。

また地下アイドル文化を説明する際、あえてアートの文脈は排除してきたが、例えば
①実際にアイドルと握手し会話が可能な現場、ブログやTwitterといった文字コミュニケーション、Instagramや生放送といった写真・映像を使ったコミュニケーションと、アイドルがさまざまなイメージと現実のステージを行き来すること
②アイドルとファンの関係が場面により変化し、双方の価値観とともに経時的にも変容していくこと
③演技/素や本物(真実性)/偽物(職業的振る舞い)の区分不可能性や、「アイドルはどこにいるのか」といったテーマが、アイドル自身の振る舞いやファンの受け止め方、運営によるコンセプトや演出など文化圏におけるあらゆる局面で思考されていること
…などがアイドルをテーマにしたアートの想像力を喚起してきた。

そして最後に。アイドルをテーマにした作品ではなく、アイドルがアート作品を制作するという行為に際して、少なくとも「アイドルを超えた」的なパターン化された論法にもはや特段の価値はないし、アイドルが主体性を獲得してアーティストになるといった物語も不要だろう。そのような時代はアイドル文化圏ではとうの昔に過ぎているのである。アイドルは、アイドル性、すなわち内的な必然性から、個性の表現でも関係性の美学でもない形で、ポリコレも反動も置き去りにして、主体性を循環させる新しいアートを生み出しうるはずだ。

CRISPY EGG Galleryには、地下アイドル文化の核がアイドル的なやり方で展示されている。それが現代アートとして機能する逆説そのものに、既存アートへの批評性を読み取ってもらいたい。

Fire of Argus 〜アルギュスの送り火〜』

【参加作家】

笹田晋平 甲斐莉乃

【日程】

2020年2月23日(月)〜3月7日(土)

(OPEN 2月23日、25日、27日、28日、3月1日、3日、5日、7日)

【開廊時間】

16時〜21時

【会場】

CRISPY EGG Gallery

神奈川県相模原市中央区淵野辺3−17−5

【アクセス】

JR横浜線 淵野辺駅北口 徒歩4分

https://www.crispyegggallery.com/map

 ARCHIBE

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