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2018.2.3~2.18

13:00~18:00

MASASHI KATO

​『舞台裏を観測する』

​金 土 日

​作家在廊日 2/3.2/9.2/10.2/16.2/17

CRISPY EGG Galleryでは2月3日より、加藤真史(https://www.masashikato.com/)『舞台裏を観測する』展を開催いたします。

 

加藤真史は1983年愛知県生まれ。2012年に多摩美術大学大学院を修了。2017年には第20回岡本太郎現代美術賞展に入選(図1)をいたしました。

加藤は映画のワンシーンや街の風景を切り取り、さらに小さく切り刻み再構成する作品を作り続けています。それは、一見するとデビッド・ホックニーの写真のように、ちぎられたショットをつなぎ合わせるフォトコラージュのようです。しかし、グリッド状に再構成されたドローイングの集合体はその巨大さ故に映画のスクリーンを前にした時のような実在感を感じさせるのですが、一方で部分を構成するグリッドの一枚一枚は極めて不安定で抽象的です。

 

作品を前にした時、写真のような「見る、見られる」という単純な主客関係ではなく、その大きさや一片の切れ端のいびつさから、ジャン=フランソワ・リオタールが『言説、形象』で論じた、イメージという「可視」秩序の下には「可視的だがみられない」秩序(ゲシュタルト)が横たわっており、さらにその下には「不可視」(マトリクス)が横たわっているという(※1ハル・フォスター編 『視覚論』)知覚の構造の中にいることを感じます。それはまるで、「イメージ」がいかに曖昧なものによって立脚しているのかを問うているかのようです。

最も表層に位置している、映画の一場面やなにげない風景のモチーフは(映画のスクリーンのようなサイズとその無内容さにおいて)フロイトが夢の構造を説明した際にスクリーンの例え(夢は無意識を映し出す映像)を使ったことを思い出させます。

また、わざと残された作品の端に紙のちぎりあと(図2)は、「見えているが見えていない」というゲシュタルト状態を指し、また図1に描かれている画面の裏側(正面作品の両サイド黒部分)は、イメージの最深部にはマトリクスの存在がうごめいていることを暗示していると言えましょう。

加藤の現在のシリーズは、おしなべてこの知覚構造への潜り込みを目指したものと考えられ、イメージの深部(フロイトで言えば無意識)とその表出とはいかなるものか、ということを実感させる作品であると言えます。

 

是非とも皆様にはご高覧いただけたら幸いです。

2018年1月

石井弘和

(図1)
 
「Vacancy」
500×1500cm
colored pencil on paper
2017
(図2)
「Landscape」
サイズ可変
colored pencil on paper
2017

MASASHI KATO

​加藤 真史

【Statement】

『舞台裏を観測する』

 

見落とし、言い間違い、記憶違いなどは誰にでもある現象です。睡眠や排泄のような身体が内包する自然の一部であり、私はそれらを「知覚のバグ」と呼んでいます。

それらは経済合理性においては無価値であり、さらにいえば成熟した大人として社会生活する上ではない方がよいものとされがちです。

しかし私はかつて子供でありこれから歳を重ねていきますが、子供や老人の世界は「知覚のバグ」に満ちており、それこそが人間の知覚の本質なのではないでしょうか。

 

ある作品が人間の作ったものである以上、そこには必ず舞台裏が存在します。

人間の意図というルールや制約の網の目をすりぬけて現れる、アンコントローラブルな舞台裏の要素をも含めた、複合体のような作品を作ること私は試みます。

加藤真史

【Questionnaire】

1)加藤さんの作品は一貫して、画像を一枚一枚切り離し、グリッド状に並べています。一枚の絵としてではなく、あえて小さいドローイングを組み合わせることで一枚の作品としています。

このグリッドまたは画像の並列にはいかなる意味があるのでしょうか?

「記憶の加工」という人間にとって不可避な現象を表すためです。

元になる画像を細かくカットし手作業で描き写し再構成するという過程を経ることで、その現象を可視化しようとしたことがはじまりです。

2)初期は映画のワンシーンを、現在はなんということもない街の風景をモチーフに選んでいます。このモチーフの変化は何を意味しているのでしょうか?または、共通するコンテクストが存在するのでしょうか?

近年、芸術だけでなく社会学や政治に個人的な関心が広がっていったことが理由のひとつです。そのため個体と共同体の関係性が作品に組み込まれるようになりました。

モチーフの変化という点では、任意の映画のワンシーン(「個」)から、日本中もしかしたら世界中にありふれているが似て非なる風景(「無数の中の個」)への変化です。

3)近作ではグリッドではなく千切られたパーツをつなぎ合わせる作品を作っています。そこには紙をちぎった後にできる余白がそのまま残されています。この強引とも言える余白の接合は作品にどのような意味を与えているのでしょうか?

ステートメントにもあるように身体は人間にとって最も身近な「自然」です。

紙を手でちぎった部分を描くのは、その「自然」の要素(この場合「偶然性」近いもの)を作品に落とし込むためです。

4)加藤さんの言う「記憶」とは個人の記憶ということでしょうか?または集団としての「記憶」という意味でしょうか?

もちろん「個人の記憶」であり、同時に「集団の記憶」という意味も含まれています。

現代日本の風景を描いている以上、「日本人」「近現代人」といった集団が(主に視覚メディアを媒体として)あいまいに共有している集合的記憶と不可分だと思います。

たとえば「戦後の焼け野原」「ニュータウン」「ALWAYS三丁目の夕日的風景」「(巡礼対象となるお気に入りのアニメの)聖地」「ポケモンのいる風景」などです。

5)2017年の岡本太郎賞で発表された作品では、描かれた風景がVR的実在感をもって空間を作り上げていました。しかし、作品の左右の下部分には黒い空間が描かれており、画像の裏側、または実在感の裏側を想起させるものでした。この裏側を描きこんだのはどのような意図があったのでしょうか?

伝統的に絵画空間は演劇の舞台上の空間に対応しています。額縁が幕、背景が書割、画中のモチーフは舞台上に配置されている物や人といった具合です。

しかし私たちがふだん目にする「画面」は圧倒的に、絵画よりもケータイやパソコンのディスプレイの方が多数です。そもそも今や私たちの視覚体験はディスプレイ越しの二次的体験なくして成立しません。ならばそれらデジタル視覚メディアのディスプレイを舞台上の空間や絵画空間に対応させることもできるはずです。

しかしそうなるとスマホやパソコンのアプリを切替えるときに一瞬後方に現れる「グレーの空間」が気になります。あれは書割よりも奥の舞台裏にあるのではないか。そもそも画面上に定位置がないのではないか。

そして仮にその「グレーの空間」を絵画空間の中に落とし込むことができれば、それはデジタル視覚メディアとセザンヌの絵画の余白(ひいては絵画史そのもの)を接続することになるのではないか、などとふだん妄想していることの試みのひとつです。

Interviewer Hirokazu Ishii

Respondent Masashi Kato

加藤 真史

1983  愛知県生まれ

2012  多摩美術大学大学院美術研究科博士前期課程絵画専攻油画研究領域 修了

 

個展 

2012  「雨中に於いて傘をたたむ」 新宿眼科画廊(東京)

2013  「彼女の見た夢」 現代HEIGHTS Gallery DEN(東京)

2014  「You Think You’re Breathing Air(それは本物の息か)?」 TURNER GALLERY(東京)

「紺青のDiscipline」 GALLERY NIW(東京)

2015  「Between The Lines」 Gallery W(東京)

2016  「この腕の痛みは自分のものではない」 マキイマサルファインアーツ(東京)

2017   「人は歩ける距離のなかにある風景のうちに住んでいる」 アメリカ橋ギャラリー(東京)

 

グループ展 

2012  「日常の変容」 BankART Studio NYK(神奈川)

        「脳に映るは移る日蝕」 アキバタマビ21(東京)

2016  「Gallery Selection」 マキイマサルファインアーツ(東京)

2017  「気配 - けはひ -」 フェイアートミュージアム ヨコハマ(神奈川)

受賞

 2017  第20回 岡本太郎現代芸術賞展 入選

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