Mirai no Yurei

 

{

2018-06-30〜2018-07-15;

Fri〜Sun;

"Hideki.Tarui"=="Director"

"Tomohiro.Shimizu"

"Masashi.Nakamura"

"Ryoji.Wakabayashi"

}

2018.5.10~5.27

(人間とコンピュータが一体化したある未来のある日)、インターネットを歩いていると1人の幽霊に出会った。意識が肉体に戻れなくなった彼女は人間を人間として定義していたものに興味があると言う。彼女と古いインターネットの記録を巡っていると、ある美術の展覧会にたどり着いた。インターネットの生活空間の中への浸透が始まり、現実と仮想の感覚にギャップが生じだしていた時代の展覧会だった。その展覧会の作品から、人間が身体を介して物事をどのようにとらえていたのか考えてみたいと思う。展覧会のタイトルは…「未来の幽霊」。

◇​

1・清水智裕

 

 すでに当時も画像データをメールで送信できる時代になっていたため、わざわざ絵葉書を送るという手段は特別な行為であったはずだ。そのため常に場所性がつきまとい、思い出を伝達したり懐かしさを思い起こさせたりする機能がある。その土地で得た感覚の保存形態なのだ。その土地に行ったことがなくても、受け取った側は、画像や消印、記述された思い出から、ここではないどこかにいる感覚を連想しただろう。

 清水智裕の作品はどこかで見たことのある画像を組み合わせて構図が練られている。実在しないはずの風景は、思い出に変わっていくことはなく、これから訪れるかもしれない風景であり続ける。そこから届いた虚実としての絵葉書は、絵葉書としての特性を借用した、いわば未来を懐かしむことができる風景と化しているのではないか。

 ならば、まだ訪れたことのない風景、あるいは訪れることができない空想上の光景に身体感覚を移すことは可能であるはずだ。

2・若林亮二

 

 若林亮二が雑草を題材にするのは、あるアニメのシーンから自身の幼少期の記憶が喚起されたことに由来するそうだ。アニメの中でキャラクターは雑草を採集し料理するが、若林は家の勝手口前の水桶に晒してあったスイバの茎をなめて遊んだという。若林は自身が撮影した写真の部分部分を、茂みをかき分けるように拡大し、写っている雑草の見た目の特徴をキーワードにインターネットで名前を調べSNSに記録していった。写真をただ眺められた対象としてではなく、名前にアクセスする契機として使用する。このように写真を道具立てることは、写真を一回的な視覚の代理としてのみ捉えない態度である。

 

 若林は制作過程で反復的に「等倍」の複写と出力をする。画像データ固有の大きさ(ピクセル等倍)をディスプレイに表示させたもの、実空間に固有の大きさを持つプリント、最終的には最後に複写された状態を等倍で紙に出力する。カメラ・レンズといった写真装置を扱いつつも、写真がデータであったり紙であったり、その都度それ自体が持つ大きさから遠近法を組み立て直すためである。

 平面的な紙の切れ端になった植物写真が持つ世界像は、(人間の視知覚に拠る像ではなく)彼らと同様に紙の切れ端なのではないかと想像される。

3・中村将志

 

 2011年3月11日の東日本大震災以降、インターネットを題材に作品を制作している中村将志は身の回りのインターネット環境に変化を感じていた。震災をきっかけに拡散したデモや、フェイクニュース、SNSでの発信といった現象は、メディアが人間のためのツールとして存在している感覚を強化したのである。そのようなネット環境の変化にじわじわと身体的な制約を感じた中村は、ネットを扱った作品(オンライン)から徐々に距離を置くようになったのであった。

 その反動からか中村の関心はオフラインの方に向かって行ったようだ。常時インターネットに繋がっている日常において、ネットに繋がっていないときの感覚を作品にするようになったのである。電灯のスイッチのように彼らはオンラインとオフラインの切り替わりを意識して生活していたのだ。

 

 例えばiPhoneはインターネットに繋いで使用していないときも常に携帯するデバイスである。オンラインのときのiPhoneの使い方は誰でも差がない。画面を目で見て、指を使って操作をする。人によって扱い方が異なるのはむしろオフラインのときだ。手のひらで弄んだり、指で画面の汚れを拭ったり、落としてしまって画面が割れていたり、カバーにこだわっていたりする。そのようなオフラインに残った感覚はオンラインから見た時、ひどく不自由に見える。中村が感じた制約もリセットすることはできないのだから。

4・樽井英樹

 

 匠の技から日常の習慣まで、彼らの身体には様々な動作が記録されている。それらの動作は訓練による反復で意図して体に覚えさせたものもあれば、いつの間にか癖として定着したものもある。身体に染み付いた癖はその人独自の身体性を表すものだ。例えば漫画家が描くキャラクターは作家独特の線で描かれている。時間をかけて身についた線は作家自身にとって無意識に引くことができるものだが、他人は容易に真似できないものだった。

 樽井英樹は自身の線を引く時の癖を利用した塗り絵を作成した。塗り絵の線は身体に基づく描画であるが、それを塗るということは一度顕在化した身体性を覆い隠すことになる。塗り絵というには隙間だらけの線の集合を輪郭的に捉えることで、マッスが立ち現れる。身体的な痕跡から精神的な反応へ、イメージの飛躍が起こっているのだ。

これらの作品から読み取れるのは、身体感覚とは非常に個人的であり、その人の中で培われるものだということだ。繰り返しによって身についた動作はもちろんのこと、例えば人の中に残った「思い出」というのは何を覚えているかという情報的なものではなく、記憶が時間とともにグラデーションをもって情報をそぎ落とし、出来事全体を俯瞰的に見た感覚に変わり、その人の中にとどまった状態を言うように思う。

 彼らはそのような他人にとってはとるに足らない感覚の集合体であり、その感覚一つ一つは普段意識されることが少ないだろう。しかし技能を瞬時に獲得できるわけでも、とかく効率的に行動できるわけでもない彼らは、誰もが唯一無二の積み重ねの上に生きていると言える。

 オンラインとオフラインの境界に立たされている世界で発生する新しい感覚に戸惑うことがあるとすれば、常に意味のある行動を求め自らを縛るのではなく、自らの培養された感覚との同居を楽しむべきだろう。

2018年6月​ 

樽井英樹

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『「未来の幽霊」展示の補足の補足』​

CRISPY EGG Galleryでは6月30日〜7月15日までの期間、樽井英樹ディレクションによる『未来の幽霊』展を開催いたします。

参加作家は清水智裕氏、中村将志氏、若林亮二氏。そしてディレクターである樽井英樹を加えた4名の展示となります。

 

ディレクションの依頼は前回開催された野上薫氏による『器の作用』展に続き2度目となり、現代美術としては初めての企画となります。

各作家の経歴や説明は、樽井英樹によるテキストを参照していただくこととして、私は今回の展示について補足をしたいと考えています。

 

展示タイトルにある『未来の幽霊』とは実に不思議な言葉であります。

 

本来、幽霊とは過去の存在です。

死者が強制的に現在に出現するとき初めて幽霊となるのですから、これが「未来」となるのはとても倒錯しているように感じられます。

 

これは幽霊というものがどういうものなのかを考える必要があります。

街や建物で考えるとよくわかると思うのですが、普段私たちは自分の住む「街」を意識しません。パリでもニューヨークでもいいのですが、観光に行けばその街の風景は非日常ゆえ私たちは細かいところまで意識します。道路や建物の雰囲気、人の歩く速さや、匂いまでも観察します。ところが普段当たり前とする風景だと、とたんに私たちは見ることすらできなくなります。

 

しかし、あるとき突然近所の家が取り壊しで突如なくなってしまったとします。

 

ふと通りがかったとき、空っぽになった土地を見て、人は「ここに何があったか?」と想像してしまいます。それまで名前すら覚える気もなかった元住人に、いったいどのような人だったのか、どのような生活をしていたか、なぜここを離れたのか、を想像し、そして最後には少し寂しさなどを覚えたりもします。

 

そのとき私たちは「幽霊」を見ているのです。

 

では「未来」の幽霊とは何か。

未来とは直線に流れる時間軸の先のことですので、存在していません。

その未だ存在していない「未来」に、過去に存在していたものの蘇りである「幽霊」を感じるというのは、一種の「予感」に近いものだと言えます。

 

今回描かれている樽井氏の展示の世界観は一種のディストピアとして描かれています。本展示におけるそのディストピア的想像力は「幽霊の存在を予感する」ための装置として組み込まれたものなのだと表明したものが『未来の幽霊』なのでしょう。

 

さて、本展示をめぐり、樽井氏が繰り返し語るテーマ「身体」とは一体どうゆうものなのかを説明する必要があるかと思います。

 

彼は「反復」や「癖」といった不自由さを感じるときに人は身体の存在を感じる、と考えています。

前回CRISPY EGG Galleryにて開催された『FREEZE!』(2016)の切り絵シリーズや近年の塗り絵シリーズなどは、動きをゲーム的に規制することで身体が経験されるとし、当該シリーズの絵画はその痕跡であると考えているようです。

ただ、最近の樽井のテキストでは身体性を構成する要因として、「環境」や「経験」が伴うという考えを示すようになっています。

そのアイデアにおいては、「身体」の解釈は拡大しており、本展示でもメディアやネットといったテーマを取り扱う作家を組み込んでいることからも、本来身体とは別のものとされてきた外部も身体性を構成する要因ではないだろうか、という言説を取り込もうとしているようにみえます。

 

これは、身体と非身体の境界が曖昧になりつつある現代において、必然的かつ重要な問いであると思います。

 

 

 ◇

最後にギャラリーとして、なぜ樽井氏にディレクションを依頼したのかを書かねばならないでしょう。

 

樽井英樹氏は自身の個展とは別に、2014年にアキバタマビ21にてグループ展『素晴らしい人』展を企画。またさらには2017年に『ステーキの手渡し』(アートラボはしもと)でも同様に複数人による展示を企画しています。

 

個展を通して自らの主張を発表することとは異なり、このような複数人での展示企画は各作家の主張をしっかりと受け取りつつ、自身の表現へと接続させる必要があり、より高い次元での作品理解が必要になってくるのだと思います。

樽井英樹氏のキャリアも2008年に初めて発表してから約10年となり、若手から徐々に中堅へと移行していく時期です。私としては樽井英樹という作家の今後の活動を捉え直す時期に差し掛かっていると考えています。

 

今回の『未来の幽霊』はSFの世界観を軸に、とある物語を語る試みではありますが、その裏の目的は樽井英樹氏にとって重要なテーマの一つである「身体」を、全く違うアプローチで取り組んでいる作家の視点を通すことで、テーマをより深く掘り下げていくことを目指しています。

 

また企画を作れる作家は意外にもそう多くはないので、樽井氏の今後のキャリアに、ディレクターとしての活動が増え、幅広い活動へと繋がっていくことをギャラリーとしては強く望んでいるところです。

 

しかる理由により、この企画はグループ展と称しながらも、かなり樽井氏の個展的要素の強いものとなっています。

 

コントロールを強いられかねない本企画に快くご理解、ご協力いただいた清水智裕氏、中村将志氏、若林亮二氏には心より感謝をいたします。

 

是非とも皆様にはご高覧いただけると幸いです。

CRISPY EGG Gallery

石井弘和

『未来の幽霊』

2018年6月30日〜7月15日

ディレクター

樽井英樹

参加作家

清水智裕

中村将志

若林亮二

OPEN

金 土 日

13時〜18時

作家在廊日

樽井英樹 6月30日、7月1日、8日、15日

清水智裕 7月1日、13日

若林亮二 7月1日、8日、15日

CRISPY EGG Gallery

​神奈川県相模原市中央区淵野辺3-17-5

Introduction