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realityandiexistsimultaneouslyatthispresentmoment.

2015.12.4~12.23

 

AYA KAMATA

はじめに

CRISPY EGG Gallery プレオープン企画の第二回目として、鎌田あや『realityandiexistsimultaneouslyatthispresentmoment. 』を開催いたします。

 

鎌田あやは学生時代、マイク・ケリーやアネット・メサジェに代表されるアブジェクション(おぞましいもの)と呼ばれる状態を作品としていました。彼女はぬいぐるみや髪など、幼児が好む素材を使い、おぞましく、不快感さえ覚えるようなインスタレーション作品や立体作品を発表してきました。作品に添えられている彼女のコメントからは、まだ自我が未分化だった頃の記憶を呼び覚まし、その記憶を吐き出すようにして作品が作られているということが伺えます。(Aya Kamata Homepageより閲覧可能)

 

その後、彼女は文字通り幼児性をアブジェクション(棄却/排泄)し、「私は、いま、ここに、いる」という自我の目覚めを確かめるようにして、自己を関数的に規定することのできる「言葉」や、時間軸としての「この瞬間」を形として表す作品へと変化していきました。

しかし、「言葉」や「この瞬間」は火花のように一瞬しか現れないため、この世にとどめおくことはできません。そのためか、彼女の「言葉」や「この瞬間」は砂や水、ガラスのように形がなかったり、非常に脆い素材で作られています。

 

彼女の作品の変化は、まるで幼児が世界を自ら発見していくその瞬間を覗き見ているようだ、と言えるでしょう。

 

新作では、世界を発見する過程においていかに世界が曖昧であり、それは世界を規定する私たちそのものが本当に存在するのかどうかわからない、という鎌田あやからの問いが作品となっていると考えます。

ぜひ、鎌田あや『realityandiexistsimultaneouslyatthispresentmoment. 』展をご高覧下さい。

 

石井弘和

 

ステートメント

 

あなたの目の中で、空間がはっきりしたり、ぼんやりしたり、消えてしまったり、またぼんやりしたり、またはっきりしたり、また消えてしまったり、そんなふうにあなたの目の中を行ったり来たり出たり入ったりしているような。
 
鎌田あや

作家インタビュー

 

① 好きな美術作家は誰ですか?

 

 カミーユ・アンロ

 ルドルフ・スティンゲル

 ジョン・ケージ

 中平卓馬

 

② 影響を受けた作家、作品はありますか。またそれは誰ですか?(何ですか?)

 

 多和田 葉子

 

 小説家ですが、彼女の作品を読むと、ぐらりと脳味噌と空間が揺れ動き震えます。何かに行き詰まると必ず彼女の本を手に取ります。

 言葉で彼女の作品を説明するのは難解だし物書きでない私には無謀なので引用を3点。

 

 一つの音が演奏される、その音は生まれることによってすでに存在する空間を占めるのではなく、作る。ある考えが頭に浮かぶ、その考えもこの世に空間を作り出す。つまり、まず容器を作って、そこを後から満たそうというのではなく、言葉を生み出せば、その言葉そこものが空間となるということだ。(『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』より)

 

 金魚すくいがしたいが、すくえば金魚は紙になってしまう。(『飛魂/盗み読み』より)

 

 人の声をじっと聞いている時、わたしには、話している相手の顔が見えなくなる。声は顔を食べてしまうらしい。(『飛魂/飛魂』より)

 

 私は、美術家よりも、こういった文筆家が発信する言語からインスピレーションを受けているのだと思います。

 

③ 鎌田さんが美術を始めた時期はいつですか?

 

 何時だろう…。未だに始まっているのかも分からず、何かを認識しようとすると時間が立体的に過去・現在・未来を立ち塞いでしまいます。

 

④ 以前お話をさせていただいた時にご自身の作品を「フェミニズムではない」とおっしゃっていましたのをいまだに覚えています。確かに、フェミニズムの作品は往々にして、女性性やセックスや身体などを想起させるものが多く、一方で鎌田さんの作品はそういう女性性などが生まれる以前の「少女」がモチーフなのだと思っています。このことについていかがお考えでしょうか?

 

 例えば、今目の前にある「緑色」がわたしに見えているこの色なのか、わたしが知っている「緑色」が他の人にもあるのかどうか、どうやったら知ることができるのか、ずっと気になっていて、もしかするとそれが私の大きな制作テーマなのかもしれないです。 

 フェミニズムと括られがちなのは、私が“手仕事”に拘っているからかもしれないです。影響を受けた思想、アンリ・フォションを引用します。

 

 ネルヴァルは呪いを受けた一本の手の物語を書いている。身体から切断されたその手は、自分だけの独特な仕事をやりたい一心で世界をかけまわる。わたしは手を身体からも、精神からも、切り離すまい。だが、精神と手との間柄は、手下の服従に慣れっこになっている頭目と、なんでも言いなりになる手下との関係ほどに単純なものではない。精神が手を作る。そして手が精神を作る。物を創造しない身振り、明日なき身振りは、意識の段階までは引っ張ってゆくが、そこまでの話である。物を創造している身振りは、内的な生命に対して絶え間なくひとつの作用を及ぼす。手は触覚を敏感な情動状態からもぎ離し、実験に向け、行動に向けて触覚を結合する。広がり、重さ、密度、数を所有するすべを、手は人間に学ばせる。それまでにはどこにもなかった宇宙を作り出しながら、手はその宇宙のいたるところにみずからの手型を残す。手は素材ときそって素材を変貌させ、形ときそって形を変容させる。人間をみちびきながら、空間、時間、いずれの場にも、手は人間を増殖させつづける。(『形の生命』より)

 

 少女をモチーフにしようと意識したことはありませんが、天使のような中立的な存在に興味はあります。まだ誰も見つけていない、新しい性別になりたい。と主人公に語らせたのは山崎ナオコーラですが、私も同感です。そういえば村上春樹の描く人物たちも大様にして中立的・中性的だなと思います。彼の言葉を借りれば、6本目の指が私のステイトメントなのかもしれないです。

 

⑤ 大学卒業頃の主なモチーフであった「少女」から変化して、近作は少女的イマジネーションを残しつつも、「少女的の持つ怪物感」よりも繊細で壊れやすい、もしくはもう壊れてしまったものへと作品が向かっているように感じます。この変化はどのような理由からくるものなのでしょうか?

 

 簡単に言えば、“少女”という黄昏は私の前を通り過ぎたのだと思います。

 もともと壊れやすいもの、壊れてしまうもの、は表現しようとするテーマに対するマテリアル選びにとって最重要ポイントでした。ただ、そのこと自体を全面に出そうと考えたことは一度もなかったので、石井さんに指摘されて鱗でした。そういった素材を自覚的に選ぼうとするのは無意識的に、石井さんが指摘されたことの反映 なのかもしれないですね。

 

⑥ 作品の多くは「光」を質感的に意識したものが多く感じ、近作になるにつれその傾向は強くなっていると思います。この「光」を質感的に捉える理由はなんでしょうか?

 

 『創世記』に興味深い記述があります。光の創造よりも前に、「神の霊が水の面を動いていた」とあり、水面の揺らぎが根源的なイメージとして登場しているんです。この一節について多くの神学者が考察しています。アウグスティヌスによれば、これは「人の知識をはるかに超えた愛」のことらしいです。なんだか壮大…。

 

 私は、まだその揺らぎが何なのか思考中ですが、物質・物体・現象についてまわる光り輝く影を捕らえたいです。

 

⑦ 鎌田さんは作品に詩を添えていたり、言語そのものを作品にしたりしています。この言葉とイメージの関係性について、鎌田さんはどのように捉えているのでしょうか?

 

 「幼児期」を意味する「インファンティア」とは、言葉の手前にあること(in + for)を意味していて、イメージとはまさしく言葉の手前にあるものにほかならない、と考えています。 

 

このことを考える時、中平卓馬が浮かびます。

 

「われわれが不遜にもそう信じ込んでいた世界と私との直接的な出逢い、生の生体験から結果した技術的なアレ・ブレなどはまたたくまにひとつの意匠にまで変形され、当時おそらくはもっていたであろうわれわれの反抗的な姿勢とその映像は、反抗的な情緒、反抗的な気分として寛容にも受け入れられ、そのことによって逆にわれわれの反抗を骨抜きにする結果を生んだにすぎない」(『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』より)

 

 記憶がほどけて以降、中平は今自分に触れているものにしか感応しないようにみえました。『カメラになった男』で中平が彼のことを芸術家だと知らない観光客のおば様たちにスナップ写真を強請られインスタントカメラを受けとり、彼女たちの像を無視し、海(海じゃないかもしれない…)の波間を懸命に撮っていた姿が印象的です。

 中平とおばさま達の思惑がアベコベで、初見時は映画館で声を出して笑ってしまったシーン。今でも記憶に残っていて切実に大切なことを訴えかけるシーンです。

 

 脱線してしまいましたが、言葉とイメージの間、言葉と言葉の間、そしてイメージとイメージの間を跳躍し、自らそこに接続線を引くような行為が重要なのではないでしょうか。

 

⑧ 本展示について何かテーマなどありますでしょうか?

 

それらはともに存在していたのですから、それらがともに存在していたということを思い起こしているのです。